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ある真珠のネックレスが話の筋に入り込み

1917年には、5番街通りと52丁目通りの交わる一帯は、プラントの手に負えないものとなって久しかった。ハリー・ウィンストン ネックレス商業施設の侵入に加え、かつてセントラルパーク以南の5番街通りに豪邸を構えていた一族のほぼすべてが、59丁目通り以北の新たな住所に移り住んでしまったこともあり、プラントは物理的にも社会的にも取り残されてしまっていた。彼はすでにその前年から、86丁目通りと5番街の交わる区域に、さらに規模を大きくした新居を構える計画に取りかかっていた。

 ここで、ある真珠のネックレスが話の筋に入り込み、事実と伝説とが非常に興味深い形で混ざり始める。

 話は次のように進む。プラント夫人は、5番街712番地のカルティエに展示されていた真珠のネックレスをいたく気に入った。それは、肖像画家アルフォンソ・ジャンガーの原画を元にクラウディア・マンロー・カーが描いたメイジーの肖像画の中で彼女が着けているネックレスだ(そしてその絵は今日、カルティエブティック内のメイジー・プラントのサロンに飾られている)。これは実際には2本のネックレスからなるダブルストランドで、短い方は55個、長い方は73個の巨大な天然の南洋真珠が使われている。2本合わせて100万ドル(約1億1145万円)という価格だった。1917年当時は人工真珠がまだ市場に出ておらず、無傷の大きな真珠を使って大きさが段階的に変化していくネックレスを製作するのには、多くの時間と資金を要した。ピエール・カルティエもルイ・カルティエも、必要な時間と資金には事欠かなかったが、それでもこのようなネックレスの製作は、彼らにとっても希少な挑戦だった。

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プラント夫人は真珠を欲しがっており、プラント氏は5番街52丁目の邸宅を出たがっていた。そして取引は成立した。『THE REAL ESTATE RECORD AND GUIDE(不動産の記録と案内)』の1917年7月21日付け記事に取引の結果が報道されているが、“他の価値ある対価”という言及が目を引く。

「5番街と52丁目の交わる南東区画にあるモートン・F・プラント氏の住居は、宝飾商を営むパリのルイ・J・カルティエ氏とニューヨークのピエール・C・カルティエ氏に事業用途として数ヵ月前に貸借されたが、その不動産がこの度、両氏に売却された。所有権は先週土曜日に、100ドル及びほかの価値ある対価との引き換えで移譲された。貸借契約の際に、買取選択権が貸借人に与えられており、貸借人はそれを行使した。住居は商業用途に改修されている最中であり、現在は5番街通りのこれより北で営業している会社がまもなく入居できる予定だ。プラント邸は5番街で最も知られる建物のひとつで、ヴァンダービルト家の邸宅とは通りを挟んで反対側に位置し、5番街を北上する商業化に対する防波堤の役目を果たしている。プラント氏は、自宅の売却や賃貸借の話を何度も持ちかけられたが、いかなる提案も検討しようとしなかった。ところが数ヵ月前に、商業化と立ち向かう自身の抵抗は無意味なものだと考えるに至った」

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こうして、プラント夫人は真珠を手に入れ、カルティエはブティック(邸宅)を手に入れた。プラントとの契約に従い、建物の外観は一切変更されなかった。驚くべきことだが、内装についても1917年にカルティエが改修して以来、2000年から2001年の補修を例外として、実質的にそのまま、今年の大掛かりな改修まではほぼ手つかずであったのだ。建物はニューヨーク市の歴史遺産となり、カルティエが入手したときの外観をほぼ保持している。プラントは明らかに、少し前から5番街653番地を立ち去る出口戦略を模索していたのだが、カルティエとプラント夫人がそれを容易にしてくれた。 自分はもはや欲しくもなく、必要としてもいない家から出ることができ(86丁目のプラント邸は、さらに宮殿然としたものとなる)、妻をこの上なく上機嫌にすることに成功したのだ。だが、彼は自身の新居を長らく謳歌することはなかった。豪邸の売却から1年半もしない1918年11月4日に、モートン・フリーマン・プラントは逝去した。この上なく裕福な独身となったメイジー・プラントを後に残して。